わが家近くの散歩道三ツ沢せせらぎ緑道にあった「せせらぎ」が埋め立てられてしまいました。タイル張りの「せせらぎ」で情緒はなかったのですが、ちょろちょろ流れる水があったからこその「せせらぎ緑道」。
「せせらぎ」の落ち葉掃除を業者が定期的にしていましたが、いかにもやる気がなさそうで、ゴミを植え込みの下に寄せて終わりといった様子でした。そんな業者に税金を使うのが勿体ないのだったら、市民の力を借りるとか、他に方法はあったはずです。周囲の住民に何も伝えずの今回の神奈川土木事務所の判断は、明らかに行政の手抜きと思います。
六番目は島田橋。滝の川はここで再び国道1号(横浜新道)と交差していました。
写真は滝の川の下流から上流の島田橋を望むもの。左右に走っているのが国道1号で、左が東横線反町駅方面、右に進めば横浜パイパスへ。
旧道はここ島田橋で国道1号を横切り、150mほど先で再び国道1号に合流。横浜駅と三ッ沢上町を結ぶボンネットバスが走っていて、門前橋近くの空き地で方向転換していました。
正面の白っぽいビルの1階にはそばの「やぶ」、2階は寿司の「浜」。滝の川の向い、旧道沿いには何と牧場があり、乳牛を飼っていました。
四番目は今下橋。わが家近くにあったコンクリート製の橋で、横浜駅への抜け道にかかっていました。
写真は滝の川の上流を望むもので、左が沢渡(さわたり)から横浜駅方面、右に50mで国道1号(横浜新道)。
右手の建物は丸山豆腐店。この通り「サービス通り」にあった店の中で、薬局、クリーニング屋、中華そば屋、古本屋、米屋(のちに菓子屋)、乾物屋、銭湯、文房具・化粧品屋、靴屋、模型店、ケーキ屋、風呂桶屋、魚屋はすでに店仕舞いしてしまいました。
50年前は大きな建物も少なく夜は静まりかえっていたので、1.5kmほど離れた東横線反町駅のガードを通る電車の音や横浜港の汽笛の音が聞こえたものです。戦後当地に移り住んだ両親によれば、焼け跡の向こうに東横線のガードが見えたとのこと。何にもなかったんですね。
二つ目の橋は門前橋。写真の橋を右に渡って坂を登ったところに「豊顕寺(ぶげんじ)」があります。
現在の国道1号(横浜新道)は昔、豊顕寺道と呼ばれていたそうで、1700年ごろには学舎5棟、学寮25棟、学徒300人の盛況を極めた豊顕寺の僧侶が行き来した道だったのでしょう。
4月8日の花祭りには豊顕寺の門前にテントが並び、子供の頃、境内で甘茶をいただきましたが、最近はどうしているのでしょうか。
最初の橋は上田橋。この橋は滝の川が国道1号(横浜新道)を横切るところにかかっていた橋、のはずです。「はず」としたのは、横浜新道の工事が小生の幼稚園時代に始まったので、橋そのものを見た記憶がないから。
この橋の上流には「大池」という池があり、川魚の養殖をしていました。小学校の遠足で出かけた近くの野原でウサギを見かけることができた時代です。
写真は上田橋跡から上流を望むもの。横浜新道と新横浜通りの立体交差(三ッ沢上町交差点)の向こう側にかすかに見える緑は滝の川跡につくられた「あじさいロード」という遊歩道。
美しさと便利さとはなかなか両立せず、50年たつと景色もここまで変化するという見本のような場所です。
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